昭和46年06月07日 朝の御理解
御理解 第37節
「生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ。」
生きている、生きている間、生きていると言う事、丁度学者が眼鏡をかけてでも本を読むようなものであろうと言う事、本を読むと言う事はやはり、学者が学問の道をいよいよ極めて行く、新たな分野と言うかね、より詳しくなって行くと言うか、そういう楽しみが眼鏡をかけてでも、年をとっても読まなけりや居られんのであり、勉強させて貰わなければ居られんのであろうとこう思います。信心もやはり同じこと、これこれだけの事を覚えたから、これだけのおかげ受けたからもう良いと言う事はない。
生きている間の修行はどういう修行でなからねばならんか、生きて居る間の修行、まあ言うならそこに生きがいと、または生きておる値打ちと言うものを発揮できる修行じゃなからなければならないですね。兎に角、教祖様が一生が修行と仰しゃるですから、難儀がある苦労がある、例えばお金に不自由する、体が不健康である、教祖様が一生が修行と仰しゃるから、まこれは仕方のないこと、だからそれをただ苦労で受けずに、修行で受けて行かねばならないなんて、私はこんなつまらない修行はないと思うね。
一生貧乏の修行がついて廻るなんてもうこれは修行じゃない、もう苦労なのだ、人間が難儀を感ずると言う、その難儀がついて廻る、その難儀そのものを修行で受けると言ったような事は、私はつまらんと思う。ちょうど学者が眼鏡をかけて本を読むようなものであろうと仰せられる、そういう修行じゃなからねばいけんと思う。新しい知識、新しい分野、それが開けて行くその楽しみが読まなきゃおられんのであり、そうさせて頂かねばおられんのである。
あぁ学者になっておったおかげで、こげな年をとってから眼鏡をかけてからでも、本を読まねばならんと言った様なものじゃない訳なんです。信心も同じこと、この年になるまで毎日お参りをせんならん、この年になるまで私共で言うならば、御結界にちゃんと座って修行せんならんと、そういう修行ではつまらん、私は一生修行と仰しゃるから、それを修行として頂いとりますじゃいかん、その修行の内容と言うものは段々変わって来る、有り難い方へ有り難い方へと展開して来る。
信心のいよいよ深さ広さに触れて行く事が、楽しみにの修行じゃなからないかんね。一生が修行じゃと言われるから、様々な難儀を致します、病気の悲しみ苦しみ人間関係の義理人情のしがらみは、そういう難儀、金光様の御信心を頂いとれば、そういう難儀から脱却して行けれる、そういう難儀から解放される、井戸は清水になるまでと、そういうおかげが受けられるのがお道の信心なのだ。
ですから成る程信心の初めの頃には、病気が縁であったし、難儀な問題がお願いしたり頼んだり、お伺いしたりする事の為に始まったのですから、まあそれはいっちょ修行と思って頑張りなさい、と言うのですけれども、その修行からは解放された。例えて言うと、本当にお金に難儀しておった人が段々段々お金にはもう不自由はしない、お金には困らない、と言う程しのおかげを頂くのですから信心させて頂いとる内に、もうそれは修行じゃない、もっともっと信心の奥が。
信心のいよいよ有り難いと言うところに入って行ける楽しみ、喜びその為の修行じゃなからなければならん。だから一生続けさせて頂くのが有り難いのであり、だけではない楽しいのである。もろもろの難儀から解放される、そこんところを井戸が清水になるまでとこう仰せられる。いうならばめぐりを持っておる、そのめぐりが難儀のもとになっておる、段々信心の稽古をさして頂いて、めぐりのお取り払いを頂いて、いわゆる有り難い生活が出来る。だからそれだけにそこに安住しとったんではつまらん。
そこからはいよいよ真味、いわゆる信心の味わい信心の喜び、もう楽しいそういう私は修行させて頂く事がです、生きておる間は修行中だと仰しゃるのは、そう言う事だと思う。成る程だから信心しとれば一年一年有り難うなって来る事も分かるし、そこに生きておると、生きておる事の生きがいと言うか生きておる値打ちがある、そういう生き方をする、して貰えれるおかげ、それがお道の信心で言うおかげだと。ところがね金光様の御信心頂いとって、ただ何かしらん苦しい事だけが修行のように思うておる。
昨日も四時の御祈念を終わらせて頂いた後でした、夕食を済ましとりました。日田の麻生さんが参って見えて、大体金光様の修行ちやどういう修行ですか、どげな修行ち、どげな修行でもある。私は最近思いますのに、親先生がいつも仰しゃる天地日月の心になること肝要なりと仰しゃるような、もうこの修行が一番難しかですよと、いつもなら火の行、水の行等と言うような事いいますが、インドあたりでは一生逆立ち等という修行があるそうなが、むしろそげな修行の方が見やすいと私は思う。
私は剣道、柔道、空手ああ言う事やっとられる、それから催眠術、まあそんな事やっとるですから、水どんかかる位なら何ともないですから、水の行なりと思い立とうと思いよると言われる、だから水どんかかったっちゃどんなかごとある、なら修行になりますもんかいと、金光様の修行は、火や水の行じゃない、家業の行と仰せられる。その家業の行が実を言うたら一番難しいですと言うておられましたがね、確かにそうです。ならお水をかかっちゃならんと言うことでもない。断食してはならんと言う事でもない。
けれどもね、そういう修行は一つの過程のものであってね、それが一生続いたなんて大した値打ちはないと思うね。どうでしょうそういう修行もです、もっと垢抜けのした、もっと有り難い、もっと楽しい修行に切り替えられて行かなければならん。だからもうそういう修行は卒業したという卒業証書を貰いながら、次の修行、次の段階に進んで行くと言う、修行じゃなからなければいけんと思う。でないと生きておると言う、生きておると言うことの値打ちがない。
あっちの先生は、あの金光様の御信者さんは、一生水を被り通しなさったげな、どうでしょうか、そういう事が一生が修行じゃと言うのでは決してないと、もうその事は修行じゃない、いわゆるそこに新しい分野が開けて来る楽しみ、その為に本を読むようなものであろうぞと仰しゃる、学者が今まで何回読んでも何回読んでも、その広さ深さと言ったようなものが感じとられていく。だから読むのである。
昨夜、寝ませて頂いたのはもう十二時過ぎであったであろうか、ちょそと夜中に何か物音がしたようだからと気が付いたら、真っ暗な中に電気もつけずに文男さんが入って来ております、そして足を揉まして貰いますと言う。一時半位あったでしょうか、それから又一時間か一時間半位足を揉んで帰りました。夜中ですからね、昨夕企画の人達が集まって企画委員会でしたから、まあ毎日お参りも出来ませんし、遠いからだからせめて、まあお参りした時だけは、之はもうどうでも先生の足を揉まして頂くと言う事を修行と、まあ心得て居るのじゃないでしょうかね。
普通で言うなら迷惑な話ですよね、もう一時半ころ寝てるところへ出て来て、はいはいと言うて揉まれるとですから、ところが嬉しいもう本当に嬉しい、もう眠うしてたまらんじゃったばってんから、揉んで貰いよるうちに段々有り難うなって来てから、あの胸が熱うなる位うれしい、これが文男さんに通って行かない筈がない。もうそれこそ嬉しうして、楽しうして、もう足を揉みよったからじゃろう、汗をぶるぶるになってからもう、私は尊い事だと思います。
せめてと言うてする修行、その代りもう絶対ですね、合楽に来るなら絶対足は揉むんだと決めとる、信心にはねそういう修行もある。これはどう言う事であろうか、私は先ずこれはまあ、文男さんの心になってみにゃ分からんけれども、日頃この様なおかげ受けておる、そのお礼の印しの為の、修行だと私は見てとった。先生の足を揉ませて貰っていっちょお徳を頂こう、先生の足を揉ませて貰っていっちょおかげを頂こう、と言うものではない様に思う。
皆さんが日々おかげを頂いて有り難いと思う、その有り難いと言う、御礼の印しに修行をさせて貰う、一日を締め括らせて頂いて、どうぞ今日も御心に適う一日でありますようにと祈り願って、朝の御祈念には御祈り願ったのに、一日締め括って見ると、あそこも実意が欠けておった、あそこもお粗末であったろう、ご無礼であったろうと思う。そこでお詫びの印しの修行がいる訳です。でないと前に進まれませんものね、私はそういう信心が大事だと思う。
お粗末ご無礼だらけで明日に持ち越すなんて、それは例えそのような生き方にならせて居っても、どこにお粗末があるやら御無礼があるやら分からん。人間生身を持って居るからどこにお粗末御無礼があるやら分からん。これは同じ事、けれども、あそこは御無礼であったあそこはと思う、気付かせて頂いたらそこん処をお詫びの印しに修行させて貰う、皆さん実行させて御覧なさい有り難いもんです。
寝すませて頂く前に、お詫びの印しに大祓い一巻、それでも未だ許されたと言う気がせんなら、もう一巻上げて見る、そこから何とはなしに心はすっきりとして来る。そのすっきりとして来ると言うか、許されたと言う心が、おかげはいわゆる和賀心である。自分の心で祓う事も出来れば、ご無礼をご無礼として受けねばならんような事にもなる。そこに私は信心は工夫が要ると思う。
お詫びの為の修行、お礼の印しに修行させて貰う、こういう大変な事を願っておるのであるから、こういう大きな願いを立てているのであるから、この位の修行は当たり前としてさせて貰う修行、御礼お詫び願い、私共は願いを持たないものはない、勿論その願いも段々高度のもの、段々広く大きなものに段々変えられて来る。そこに信心の成長を感じる訳ですけれども、ただ願うただけではいけん。世界天下国家の事まで願う。世界真の平和を願う、世界総氏子の身の上安全を願うと言うたところです。
そういう大変な事を願うとるのであるから、この位な修行は当たり前と言う、その願いの裏付けになるような信心修行が成されなければ口で言うだけなら唱え事にしか過ぎんのです。がにゃがにゃがにゃお経読んどる様なものじゃ、そこに本当に願いが確立したら、その確立したその願いに対する所の引き当てになる程の信心が、いわゆる信心修行が出来なかったらおかしな事ですわ、一生そう言う事を言い続けただけであって実が上がらん。実が上がって行かなければならん。実績を上げて行かなければならん。
丁度学者が眼鏡をかけて本を読むような事がです、新知識に触れて行ける事が楽しみでもある。喜びでもある。学者でなければ味合えない楽しみ、喜びと言った様なもの、があるからこそ眼鏡をかけて本を読むように、私共信心させて頂く者がですより有り難い修行、より楽しい修行そういう修行が出来る。それがどういう事を意味するかと言うとね、その有り難いとか楽しいとか、それがいよいよ深うなって行く、広うなって行く修行にはね、結局またおかげもそれと同等のおかげがついて来るのですよ。
もうおかげはいらんと思うたっちゃ、有り難い修行が出来よると思うたっちゃ、おかげが伴わない修行であるならば、それはあなたの修行はどこか狂うとると言わなければならん。金光様の実践はもう実と理が伴うとる、信心が進んでおると言うならばです、いうならば、おかげも進んどらなかればならない。あっちの信心は仲々大きいと言うならばやはり、それに大きなおかげが伴うとらなかったら、それは空であるそれは嘘なんである。大きいごとあるだけ進んでござるだけなんです。
おかげが進まんならん、おかげが大きうならんならん、そこんところに金光様の御信心は、私ははっきり例えて言うと自分の信心が軌道に乗っとるかどうか、間違っとるかどうか、はっきりと確かめて行ける訳ですね。だから引いたら足して見る、掛けたら割って見ると言ったような、間違いのない信心を進めて行けれる、しかもそれが生きておる間、そこに生きておると言う事の値打ち、生きておる意義と言うものが実に尊い素晴らしい、しかも有り難い楽しいものになって来る。
なるほどこの信心を持って行きゃ、あの世にもこれは極楽に行けるぞと、言う確信も生まれて来る。この調子で信心が進んで行きゃ、有り難い死生かんもそこから自ずとそなわって来ると言うもの。それがどうでしょうね、毎日毎日腹が立つ、毎日毎日何か、いらいらしている、信心は分かって行きよる、信心はくわしうなって行きよる、それならばね論語よみの論語知らずであって、信心を頂いている値打ち、論語の勉強している、値打ちはないわけです。
この頃不平言おうにも不平に思わんのだから言いようがない、と言うようなねおかげの世界が、自分の心の上から家庭の上に、そしてそれが社会に広げられて行く、こういうおかげを皆頂いたら、皆も楽になる事だろうとこう思う神心がね、押し進められて行くと言う信心でなからなければならんと私は思うのです。どうでしょうか皆さんの心の中に苛々の影がひそんで行きよるであろうか、腹立つような事はもうなくなって行きよるであろうか、それに引替えて有り難いと言うものは。
育って行きよるであろうか、生きておる間は修行と、この世は苦の世、苦の世界だと言った人がありますよね、だからこの世じゃ仕方がないと言うのです、こんな馬鹿気た信心はないと思うですね私は、もうこの世は苦の世で苦の世界だから、そげなこつじゃなか、毎日が有り難うして有り難うして、勿体のうして勿体のうして、そういう世の中にして行けれる道ですね。金光様の御信心ちや、一生が修行、この世は苦の世、苦の世界だと、そういう、先からも申しますように。
病気で呻吟しておるとか、いつも経済の問題で頭を痛めておるとか、いつも家庭や人間関係で悩みを持っておるとか、嘘のようですけども、そう言うものは解脱出来て行く、脱却して行けれると金光大神の道は。けれどもそれをです、私共が中途半端にしておるから、何時まで経つても水が濁っているようなものであり、何時まで経つても病気災難の根は切れんのである。或る時点に出らせて頂いて、もうこれからは有り難い事ばかりと言う修行を、私はここで教祖は仰しゃって居られるのだと思う。
生きておる間は修行中じゃ、その修行と言うのはもういよいよ有り難いと言う内容、又はその有り難いものが頂けれる楽しみの修行、だから修行の形も変わって来るがその内容もそのように変わって来る。もうそれは手の届かない理想ではあろうが、そういう事は出来んと言うて、苦の中に逆戻りして行く人がある。本気でやって見ようとも思わずに、私はそういうおかげの受けられる術を私は自分で表して行きたいと思う。そしてこういうおかげは受けられると言う、実証して行きたいと思う。
金光様の御信心すればこういうおかげは受けられるのだと、しかもそれは益々楽しうなって行く、益々有り難うなって行く為の修行である。そこになって参ります時にねいわゆる、表行より心行をせよと仰しゃる、その心行の深さと言うものはもう限りがない、心行と言うのは心に辛い、苦しいと言う事を感ずると言うのではないのです。いま私が申しました、学者が眼鏡をかけても本を読むようなものであろうぞと仰せられる、そういう修行なんだ、だから修行せなければ居られないのである。
より有り難いところに入って行けれる、それにはよりおかげが伴うて来ると言う修行である。これは修行に対する答え、信心に修行はつきもの、その修行にはおかげがつきもの、同時にお徳がつきもの、そのお徳もついて来ない、おかげもついて来ないと言うような、もし信心があるとするなら、これは猛反省しなければならない。そこで私共がいま頂いている修行は、ならどういう処に在るだろうかと。
銘々現在の修行の段階と言うものを思うて見て、信心が進むと言う事は、そういう修行の段階を追うてのことであろうと私は思う。いま水を被っている人があって良かろう、断食の修行している人があって良かろう、それこそお詫びの印しの修行であって良かろう、お礼の為の尊い修行がなされておる、と言う有り難いところにある人もあらなければ又ならない。それよりも、もっと私共は神様に答えると言うか、神様の御心に適うと言うか、神様の願いを願いとする程しの願いとも申しましょうか。
いわゆる大きな願いなのです。それを唱え言葉のように口で唱えて居るだけではいけん。そういう神様がお喜び頂ける程しの願いを立てて、こういう大きな願いを立てておる事であるから、この位の修行を当たり前として、日常生活の中に起きて来る様々な問題をです、いわゆる天真地心である、天のまこと、地のこころ、その真を以て受けて行け、天の心で受けて行く事なのであります。地心地の心である、それを大地のような心で黙って受けて行く、そういう修行。
しかもそれはこの様な大きな願いを持っておるのであるから、この位の修行はもう当たり前として地心、水心と言ったようなね、信心が身に付いてきたら素晴らしいこと。それこそ一年一年絶対に有り難うなってくる。その有り難さがいよいよ深いものになって来る、広いものになって来る、だからこれはもう条件じゃない、願いじゃないけれども神様はもう与えずには置かんとして、おかげの方はもう大きくなって行く事は絶対、もしそれが大きくなって行かんならそれは答えなのだから。
自分の計算違いであるとして、一ぺん計算を仕直して見なければいけません。私共は一生が修行じゃと、一生が修行じゃと言うとこだけを聞くと何か暗い感じがする、何か一生苦労が付いてまわる様な感じがする、決してそんなものじゃない、楽しい有り難い修行にね私共の信心、いわゆる信心修行なのである。信心修行が有り難いものに楽しいものになって行く程しのおかげ、そこんところを学者が眼鏡をかけて本を読む様なものであろうぞ、という例えを言うておられるのだと思います。
どうぞ。